無花果の木の登る

「水ヶ浦でようく遊んだで。砂浜があって、いちじくの木があって、友達が“みっちゃん、いちじく食うてまっちょれ”というくらい、登って採るような大きな木だったな。

家は3~4軒、豚小屋がぎょうさんあった。
日用品の店しよったと聞くけど、もう人はおらなんだな。
船が潮待ちするので集まってきて買うんじゃと、聞いたことがある」

豊島事件の現場は、島の西端に位置する水ヶ浦と呼ばれるところです。
住民運動を率いたリーダーの一人、砂川三男さん(88)はその近くに住んでいました
昭和10年前後、砂川少年の頃、水ヶ浦はきれいな弓型の砂浜だったそうです。

「豊島事件の問題を起こした人の親が、ここの砂をとって大阪へ売りました。
ガラスの原料になったんです。
私が子どもの頃、もっこで担いで10トンか20トンの木船へ積んで
大阪へ運びよったから、この海岸が後退するのがわかりにくかったですけど、
のちに機械化してどんどん採ったもんですから、
この海岸が昭和41年には140メーター(m)後退しました。
いわゆる海岸の砂が無くなってしもうたんです」

豊島事件の発端は1975年。
なにが起こって、豊島住民はどうたたかってきたか。
そして、この土地は今どうなっているか。
ぜひ見て、当事者から聞いていただきたいので、
来年の3月まで毎月豊島ゼミを開講します。

講師は、住民運動を率いた長老の意思を継ぐ一人、
石井亨さんです。