経済事業としてのアスパラガス

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レモンを見に行くと、草が茂る合間にふさふさとした葉先が見えた。アスパラガスだ。ふたまわりの春、草に覆われていた。3度目の夏、草がきれいに刈られた後には畝もなかった。

「アスパラ、二人では食いきれんほど採れたんだで。なかったか…」、長老は話題を変えた。「スイートスプリングは、実がなってるかな?」と。

豊島を離れると決めた時、屋敷の土地を人に任せると決めた時、人には語れない思いがあったに違いない。それでも明日を受け入れるために、島を離れた。時折、「ほんまはつらい。できるだけ豊島におって、産廃を見届けたい。それができんつらさがある」と、ぽつりと言うことがあった。島を離れて3年、そのこともめったに口にしなくなった。

そんな長老にアスパラガスの話題は、さざ波を起こしたようだった。

以前、長老から豊島の未来像を聞いたことがある。

「多角経営じゃないといかんと思って、小麦、米、たばこ、乳牛をやった。よう、もうけなんだな。豊島の基本は農業。専業は難しいで、耕地面積が狭いから。豊島の生きる道は一次産業、忘れたらいかんね。今の世の中は潤沢で、どんどん入るけど、米は豊島の米食うて、大量生産ならアスパラ。2反をハウスでやったら生計がたてられる。その代わり2年は食えんけどな(笑)」

豊島には豊島なりの農業がある、と、長老が島の将来像を描くのも自身の暮らしから導き出されている。兼業農家として早朝に牛の世話と農作業を済ませ、農協に勤め、一次産業を担ってきた。

「若い人でも野菜作りを熱心にしてくれる人が豊島におるんで。少量多品種でやったら2軒は食える」という。豊島には福祉施設が3つある。老人福祉施設のナオミ荘、乳児園の神愛館(2015年坂井へ統合)、障害者施設のみくに園。それに小学校と中学校が1校ずつ(2016年統合)。それぞれに、豊島で作った野菜を卸す構想だ。

豊島で長老は野菜の無人販売を始めた。豊島の野菜が買えるとあって、島の人が重宝した。無人なのに野菜の注文が入り、家庭菜園で採れたものを並べる人も表れたという。

「食べきれずに無駄にしている人がおるからな。そこら辺のおばちゃんたちが持ち寄ってくれて、おばちゃんの小遣いになったらええで。お互いが試験台やしな、うまいこといくと思った。広めていったらいいと思っとたんじゃがな」

アスパラはその時に植えたものだったのか、とふとよぎる。野菜の無人販売は、ある日を境にとん挫した。アスパラガスの栽培は水が要だ。長老の土地は砂地で、沼の地下水位が高い。アスパラガスの育成には好条件がそろっていた。地面がふわふわするぐらい堆肥を入れたところに、宿根草であるアスパラを植えたら、10年は出荷できると言われている。春にアスパラを摘み、食し、夏は葉を蓄え、秋に刈り取って焼くと春にむけて地下でアスパラが育つ。島を離れても季節のめぐりに乗せて、アスパラに託した長老の思いは育っていたのだ。それがもうない。

■2016-10-12